牛丼を考える

昨日の建国記念日。本当の記念日は「牛丼最後の日」なのかも知れません。もう一日中「本日を持ちまして牛丼は終わります」的なニュースが流れまくっておりました。
そりゃあ牛肉を愛する同志として寂しいことに変わりありません。特に「吉野家」に至っては、ほろ苦い青春を共に過ごしたと言っても過言ではないのです。真夜中に、行くアテもなくビールで牛丼、朝を迎えたことも一度ならずあります。深夜番組を見ていて、急に思い立って牛丼をかき込んだあの日。思い返せば牛丼と私の間には、言葉に出来ないような甘美な時間があったのです。あったのですか?なかったかも知れません。ええ、きっとありません。
でもね、やっぱり吉野家の牛丼はなくなってはいけないのですよ。あの価格、あの味、あの手軽さ。全てが見事なバランスでした。和牛を使って再開、などと無茶苦茶なことも聞きましたが、きっと国産牛の間違いでしょう。いや、それはいいんです。それよりも米国牛の輸入云々という時の映像が、乳牛なのですよね。BSE感染牛もたしか乳牛です。そして日本で見つかったBSEも乳牛。まぁ乳牛も廃牛となった場合は食べるのですが、基本的に食べるための牛ではなく乳牛なのですよ。
とどのつまりは吉野家の牛肉が手に入らないことも、私たちの口に牛丼が入らないことも、どこかで掛け違えたボタンなのです。どこで掛け違えたのか、もう一度ハッキリと確認しなければいけません。それは、頑ななまでに全頭検査を要求する日本と、それを拒み続ける米国。そして前回のBSE騒動で、国産牛を使っていない米国牛のみです、と言い切ってしまった店。余りにも安価で安定してしまった牛丼に慣れた顧客。そうです、やはり一度冷静にならなければいけないのです。
だから「本日で牛丼は終わります」というアナウンスで吉野家に飛び込んでいる場合ではないのですよ。落ち着きましょう。そして再び牛丼の販売が再開されるのを待ちましょう。

その時には一番乗りですとも。
昨日は寒くて外出する気になりませんでした。

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